サビアンシンボル1度
このページでは、サビアンシンボル1度の意味を、それぞれのサインごとに記載します。
- 1度は、衝動的な行動。(力が生まれる)
サインのスタートであり、サインの力が噴出します。重心が新たなサインに移動して、新たに生まれる度数です。
(ただし、牡羊座~双子座までは、まだサインの力が目覚め切っていない状態です。)
1度(活動宮)
活動宮の1度は、始まる度数です。
何が始まるのか?
それは個あるいは様々な形の集団が始まるのです。しかも、始まってしまっては後戻りできない。前に進むしかない。そうしたターニングポイントになるのが、サビアンシンボル1度の活動宮の共通点です。
牡羊座1度は地球空間における個のはじまり。鏡関係の天秤座1度は、社会集団における個のはじまり。どちらも自我感覚育成のために必要なスタートポイントです。
蟹座1度は、牡羊座-天秤座ラインとは反対に、個を捨て集団への帰依を始めます。そして鏡関係にある山羊座もまた、実際的な組織や集団の長としての指導力を得るのです。
サビアンシンボル 牡羊座1度
A woman rises out of water, a seal rises and embraces her.
サビアンシンボルにおいて、水は、無意識の世界を表します。子宮的な存在でもあります。そこから生まれた女性(=受容的な存在であり、まだ能動性を獲得していない)が、アザラシにしがみつかれているようでもあります。
アザラシは動物的なものの象徴。人間として生まれたものの、まだ自我(=人間だけが獲得するのが自我)が明確に確立していない状態でもある。目覚めた瞬間のような、まだ意識のはっきりしない状態。
サビアンシンボル 天秤座1度
A butterfly made perfect by a dart through it.
牡羊座から乙女座までで個が完成し、天秤座からは集合のなかへ羽ばたこうとする。蝶は火のシンボル。しかし天秤座1度では、蝶はまだ針に刺されて、標本として存在する。個を客観的に見るということ。多くの人のなかの一人に過ぎないという意識。
鏡関係の牡羊座1度が<空間に出現した個>だとすると、天秤座1度は<舞台にあがった役者>です。どちらも大きなプレッシャーを感じるはずです。
サビアンシンボル 蟹座1度
A furled and unfurled flag displayed from a vessel.
牡羊座~牡牛座~双子座的なものを飲み込み、過去の伝統を新しく蘇生させる。集団に帰依するために個性を捨てるという、後戻りのできない変更が加えられる度数。船に乗り合わせた全員が共通のルーツに帰属すると考える。
活動宮の1度はいずれも大きなターニングポイントを示すが、このシンボルは個性を消去して集団に心理的に一体化するという意味となる。船という集団の「旗」を立てて、集団全員が一致するための印とするのです。
鏡関係にある山羊座1度も、集団全体を取りまとめるという意味があります。ただし蟹座は水のサインであることから、心理的な面で。山羊座は土のサインであることから、実際的な、ときに権力的な面で、集団の統率をはじめます。
サビアンシンボル 山羊座1度
An Indian chief demanding recognition.
インディアンは山羊座のローカルなナショナリズムの現れ。その集団に対して、頭となる人物や能力。組織作りや企業を創始する力とも関連。鏡関係にある蟹座1度もまた、後戻りのできない決断。そういった決断力がバックにあるということ。
1度(固定宮)
固定宮の1度は、固定宮のそれぞれのエレメントの特質に唐突に飲み込まれます。
牡牛座1度では、土の特質に飲み込まれます。そして、個人の身体性とそこから引き起こされる個人の運命のなかに、抗えない流れに任せるままに転がり落ちます。
鏡関係にある蠍座1度は、水の特質に飲み込まれ、他者との一体化を強烈に求めます。土サインと水サインはどちらも限定性があるので、牡牛座1度と蠍座1度は、狭い場所にとらわれてしまいます。自由もなく逃げ場がないのですが、その分、強い圧力がかかるようなイメージで、強い力を手に入れるのです。
獅子座1度では、個人の創造性という火の活力が噴出するのです。これは個人の意志では抑えられないほどの力の爆発です。ひとつ前のサインである蟹座の特質である共感性や集団意識を徹底的に否定するかのように燃え上がるのです。
鏡関係にある水瓶座1度もまた、後先考えずに走りだします。これは前のサインである山羊座の「空間性」「地域性」から解放され、風の性質としての「理念」を求め、理想への衝動的に走り出すからなのです。
サビアンシンボル 牡牛座1度
A clear mountain stream.
山は土の元素の象徴。この山は、その人が従っている大きな霊脈のようなものを表す。そこから力が溢れ出て、小川が流れている。この水は、牡羊座30度で表れる「アヒルの池」の水である。水の流れが、強制的な運命を表す。
この度数を持つひとは、成就しなければいけない運命や使命を持つ。持って生まれた資質や個性を活かすしか道がないし、そうすることで幸運や喜びがもたらされる。
サビアンシンボル 蠍座1度
A sightseeing bus.
様々なバックグラウンドの人々が、同時に同じ体験をするために、ひとつのバスに乗り込む様子。新しい体験を共有し、人々が親しく交わる様子を表す。ここでの<バス>は、蟹座1度のシンボルにあった<船>と同様に、集団をあらわします。どちらも水サインであり、乗り合わせた全員が、同一化することを表します。
蠍座1度では、同じバスに乗り合わせた人たちが同じ体験をして、同じ感動を味わうという意味になります。
サビアンシンボル 獅子座1度
A case of apoplexy.
獅子座の1度で、根源的な生命エネルギーが爆発する。頭に血が昇って冷静さを失うような急激な状態。誇り高く、活力がある。抑えがたい衝動があり、考える前に行動するし、周囲の意見には決して迎合しない。
獅子座1度は、個人的な創造性・精神性・活力を開発しようとする探求の道が始まる度数。他者に共感されることを拒否して、自分のなかに籠ってゆく。
サビアンシンボル 水瓶座1度
An old adobe mission.
古い伝道所とは、一生を超える長い期間、それでも永続する精神的な理想の具現化を表す。たくさんのレンガが積み上げられた様は、ひとりの力では実現できない壮大な理想を示す。自我を超えた霊我の始まり。
また、こうした理想を実現するために、住み慣れた環境から離れようともします。理念を実現するためには場所は関係ないのです。己の理想に共鳴し、受け継ぐ人間がどこかにいればいい、そう考える姿勢です。ときに地位や名誉を犠牲にすることも。
1度(柔軟宮)
柔軟宮の1度は、それぞれのサインの資質に応じて、いろいろ並べてみて観察するようなところがあります。
活動宮は<後戻りできない変化>
固定宮は<サインの特質に飲み込まれる>
柔軟は<並べて観察してみる>
ことで、各々のサインのスタートを切ります。
双子座1度は、個人はボートのガラス底に守られたまま、様々な風物を観察します。鏡関係にある射手座1度では、キャンプファイヤーの周りに複数の兵士が並びます。
乙女座座1度は、実際的な目に見える要素を細かに識別する力です。全体性の中の一部を取り上げます。一方で、鏡関係にある魚座1度はそれらを「市場」に雑多に全部ぶちまけた上で、価値の優劣をあえて混乱させ、境界線を壊すことでの「全体性」を創り出そうとするのです。
サビアンシンボル 双子座1度
A glass-bottomed boat in still water.
双子座は、個人の知性や能力を果てしなく発展させるサインです。1度は、そのスタート。
個人的な関心事や好奇心、興味が多々があり、人々の種々の無意識の世界にある真実にも興味がある。だけど、まだガラス越しで自分の安全を確保した状態でのぞき込んでいる状態。牡牛座で発展させた目や耳を使って、色んな事柄を眺めるのが好きな傾向。面白そうなイベントがあれば出かけていく人のイメージです。
サビアンシンボル 射手座1度
Grand army of the Republic campfire.
火の星座である射手座の1度に、キャンプファイヤーという火が登場する。この火は、精神性、高貴な目的、自主的な生き方という、完成的な自我を表します。軍隊という義務や拘束のある場所から、精神が激しく燃え上がる状態。純粋で誇り高い精神性を表す。また休むことのない、戦い。武道にも関連します。
鏡関係の双子座1度は、個人的な刺激を求めていた度数でした。一方、射手座1度は、個人にはすでに興味がなく、集団としての興奮や高揚状態を求めます。そのため「軍隊」といった集団がシンボルとして用いられているのでしょう。
サビアンシンボル 乙女座1度
A man’s head.
獅子座が内面から感じる実感だとすると、乙女座はそれらを否定し、外側から観察する姿勢。外観の特徴の違いを、ひとつひとつ識別し強調する、優れた観察眼。すべてに共通した全体的な要素は見落としがち。男の頭は、外観の観察の対象であり、内的な実感の否定を表す。全体性よりも、対象の特徴を細かく把握することに長けていること。
サビアンシンボル 魚座1度
A public market.
魚座は、人間の行為の総決算をする。これまでの体験の全てが一堂に会する様。物質的なものも、非物質的なものも、混然一体と行き交う。そういった様々あのものの交換能力でもあり、商業化能力にも関係する。あらゆるものが交わる場所での流通的な仕事など。
世の中の思想や生き方などに優劣をつけず、すべてを平等に並べて、ごった返す中で比較する姿。価値の混乱をあえて意図的に体験する。だけど、偏見の目はもたない人。